坂井秀明の経歴
理事長 | 坂井 秀明/Sakai Hideaki |
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生年月日 | 1956年1月6日 申年 |
出身 | 福岡県久留米市 |
出身大学 | 福岡歯科大学 歯学部二期生 1980年卒 |
趣味 | 工作・機械いじり 英会話の勉強 |
開業日 | 1982年7月1日 |
認定・所属 | インディアナ大学医学部 解剖学 顎顔面頭蓋部 臨床解剖認定医 |
インディアナ大学歯学部 インプラント科 研究員 |
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ジャパンインプラントプラクティス 認定医 | |
全国歯科インプラント連盟 理事 認定医 | |
大阪歯科大学 臨床指導医 | |
著書 | ドクター育成カリキュラム 第一歯科出版 |
スタッフのヤル気が医院を発展させる クインテッセンス出版 |
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他、著書多数 |
坂井秀明「歯科医師への道」
子供のころ
たまに患者さんに聞かれます。
「坂井歯科にはいろいろ工夫された手作りの機械がありますが、先生が作られるんですか?。」そうなんです。私は子どもの頃から工作や機械を操作したり分解したりすることが本当に大好きでした。 3~4歳のころ、時計を分解するのに夢中で、特に置時計は片っ端からバラバラ。たくさんの時計の歯車を集めては「にんまり」していました。トースターや電話機まで分解するので、目の届くところには置けなくなったそうです。
幼稚園に行くようになったころ、空き缶を集め、テープで張り合わせてロボットを作りました。ダンボールの顔のなかに、ラジオを組み込み「おしゃべりロボットだよ。」と言って周囲を驚かせました。そのとき、ほめられた自分への賞賛や周囲の驚いた様子が、三つ子の魂に刻み込まれたようです。「何かを創造して、周囲を驚かせたい」という思いがいつも私を動かしているように思います。
小学生のころ
福岡教育大学の付属久留米校に入学
小学校の担任のU先生に「今日も日記はプラモデルを作った話だね。」とあきれ顔。実際にプラモデルばかり作くる毎日でした。
高学年になると、真空管ラジオ作りに興味が移り、セメダインを持つ手がいつの間にか半田ごてを持ち熱中していました。休みなしで働く今の私からは想像できないかもしれませんが、この頃は、とても身体が弱くよく学校を休んでいました。いつも夏休みになると体調を崩し、休みの大半を床の中で過ごすこともありました。内科の先生に往診に来てもらうと「原口先生は大嫌い!」と叫びながら急に元気に逃げ回っていたようです。病気を治してくれることには内心とても感謝しており、そのことが医学についてさらに身近に感じ興味を持つきっかけになっていたと思います。
いたずらの天才
また、この頃は「いたずらの天才」とよく言われていました。新築の記念式典を行う真新しい体育館の屋根裏にいたずら仲間と登り探検。誤って足をすべらせ、屋根裏をぶち破り大穴を空けてしまいました。応急で穴をふさいだ翌日、新築の記念式典が行われ「あの穴は俺たちが開けたんだ」とかなり自慢げに話していました。もちろんその後校長室で正座させられこっぴどく叱られ反省させられたのは言うまでもありません。
父との思い出
父親は歯科医で、久留米市の六つ門という中心地に5階建てのビルを所有し、その1階で大きな歯科医院を開業していました。ちなみに、父は3代続く歯科医の家系で私は4代目。無口であまり社交的でなく、どちらかというと質素な人でした。日本画が趣味と言うより実質プロの画家でもあったようで、個展もよく開き結構いい値段で売れていたとの事です。
最近、久留米の歯科衛生士学校の校長先生とお会いする機会があり、「私の父は久留米で歯科医をやっていました」というと、「ああ、桜島や水仙をお書きになる先生ですね」と言われ、なんと自宅に飾ってあるとのこと。
驚きと共に嬉しかったです。
父はアトリエにこもり絵を描くことが多く、絵を描く姿は結構カッコよかったです。しかし、私は絵を描くことには全く興味を示しませんでした。ただ、一度だけ「未来の都市」と言う題で空中都市に空を駆けるような高速道路があり、高速のモノレールが走っている絵をかいた事があり、その絵が校内で特賞に選ばれ大変嬉しそうに褒めてくれたことがありました。
また、父は釣りが大好きで、よく連れて行ってもらい投網もよくやりました。
一緒に「おにぎり」を食べるのが楽しみで、私はそんな父親から一度も叱られた経験がなく、いつも物静かでやさしい父親と言うイメージしかありません。医療人として「やさしい」はとても大事な素質だと思います。でも経営って「厳格な面」も必要なんですよね。この点では苦労しています。良くも悪くもそんな一面を私は父から受け継いでいるようです。
中学生~高校生の頃
同じ付属中学進学。
機械部という趣味の延長で、クラブの部長となります。学園祭のとき人が乗れる「ホバークラフト」を製作します。
解体屋さんで廃品のスクーターを買い、エンジンを分解、ピストンリングを新品に交換して完全復活。エンジンをホバークラフトに組み込み、近所の鉄鋼屋さんに溶接を破格で頼み込み完成にこぎ着けます。あまりにもパワフルにエンジンが動くので、危険と言うことで実際に浮かすことは出来ませんでした。夏休みの工作は毎回ロボット。結構難しい「ロボット工学」の本も読んでいました。
この頃は工学部に進学する事を目指していました。今でも、NHKの「ロボコン」、高校生が作成したロボットで色々な競技を競い合う番組ですが欠かさず見てしまいます。創意工夫し色々なアイデアで精一杯頑張っている高校生の姿に感動し涙する事もあります。
ある日、「夜も眠れないくらい痛かったのですがすっかり治まりました、本当に助かりました、ありがとうございます」と拝むように手を合わせて父に礼を言っているおばあさんの姿を父の歯科医院で見かけました。歯科医師は人に感謝される魅力的な仕事であることを知る瞬間でした。この光景は今でも心に残る一コマとして大切に残っています。
高校は福岡市に住居を移し、福岡中央高校に進学。ラジオを作ったり、アマチュア無線にもはまり、ますます工学系の毎日となります。東京の叔母のところへ行くと、ほとんど毎日秋葉原に出かけ、たくさんのガラクタを買ってきては母から叱られるというパターンでした。
今でも、大阪の日本橋めぐりは大好きで、時間があれば目的なしにガラクタを買い込んでいます。色々な物がところ狭しとならんでいる診察室を見て「おもちゃ箱をひっくり返したような医院だ」と友人の評。この時代から引き継ぐ性格だと思います。
進歩してませんね。
福岡歯科大学時代
福岡歯科大学に進学
工学部を目指していましたが両親からの説得もあって、「まずは父の後を継ぎ、その後工学部に行きたいのなら自由にしていいよ」という言葉にとりあえず入学。今の私なら当時の親の気持ちがよく解ります。
この頃も工学系一色。
アマチュア無線で福岡市でも結構大きなサークル「ロクロククラブ」を創設。キャンプや小旅行などを企画していました。また、古いワゴン車を買い、塗装や板金、内装にテーブルやベッドを作りキャンピングカーを作りました。長距離運転が苦手な私は友人に運転してもらい、阿蘇山などによく行きました。
クラブは「日本拳法」にはまっていました。体を鍛えて強く健康になりたかったのです。
日本拳法ではもともとスポーツ音痴の私はさほど活躍できませんでしたが、「個人の実力とともに、チームでその個人をどう生かすか」を学ぶ事ができました。そのときの仲間は生涯を通じての友人でもあります。この経験は後年坂井歯科医院を開業した際にでチームで医療を提供することの基礎としてに大いに役立っていると思います。
歯科大学でいろいろ勉強する中で、最も興味を持ったのが矯正治療でした。診断が他の病気とは違い、まるで機械を設計するように図面化し数値化します。そして歯を動かすためにはゴムやばねの力によりいろいろな方向にベクトルをかけ、成長などの要素も考えながら進めるのです。工学系の心をゆすぶるものがありました。
突然訪れた苦難
ここまで順調に見えた私の人生ですが、突然の苦難に見舞われます。
歯学部5年生になり登院する時期、実家は大変な変化に見舞われました。父が突然の病に倒れ、様々な事情が悪いタイミングで重なった結果、あの大きな医院を手放すことになったのです。
もちろん経済的にも困窮し、学校を辞めるかどうかという選択も迫られました。それまで勉強は二の次で学生生活をのんびり過ごしていた私には晴天の霹靂でした。学生の私には何の力もなく、ついには家も手放し小さなアパートで生活するという、どちらかというと「お坊ちゃん育ち」のそれまでとは180度の変化を体験するのです。
私はそのとき物質的な財産の儚さを知ることになります。
お気に入りのイタリア製の革張りの応接椅子とテーブル。母親の大切にしていた伊万里焼の大きな壷。今の私でもとても手が出ないような品物が次々と人の手に渡っていくのです。新車で買ってもらった日産スカイラインも換金しなくては生活できなくなりました。そのときに心に深く決心させられたことがあります。
「財産は家や高級品などの消え去る物質ではなく、生きていくための知恵として、頭や心、人間関係の中に築いていこう」ということです。歯科大からは奨学金を受け、様々な人から助けを受け卒業することが出来ました。
卒業して修行時代
大好きな福岡を離れることは考えられなかったのですが、開業までの「修行時代」は色々経験しようということで大阪へ。叔父の紹介で城東区関目の「つつみ歯科医院」でお世話になりました。
治療のために型を取ると次の日には詰め物は出来ている。かぶせ物は3日後には出来ている。審美などの特殊な治療はシースルーのエレベーターで3階の特別室で治療する。2階の技工室は前面ガラス張りで患者さんが自分の歯が出来る過程を見ることが出来る。など、患者さんの利便性やアメニティーを考えた経営姿勢に多くの患者さんの支持を集めていました。
医療を提供する中に技術だけでなくサービスも重要であることを学ばせていただきました。
このころ、矯正の勉強をしたいという私の希望で阪大の作田教授のところで、勤めながら週1日だけ研修生として通いました。その後、歯科大学で大変お世話になった、成瀬教授の紹介で東大阪の「太田歯科医院」で修行することになります。院長の太田先生はその後大阪府歯科医師会の会長を歴任されます。
太田先生の医院は多くのスタッフを抱える医院で、院長の強力なリーダーシップの下みごとにチームとして医院を運営していました。また、分院長や派遣医師の経験もさせていただき大変勉強になりました。
開業の時
あと2~3年は勉強したかったのですが、経済的理由から開業を急ぐことになりました。家族も出来て、生活の基盤を築く必要があったからです。分院長として一人で診療することも経験し自信もついていました。
しかし、卒業してまだ2年と3ヶ月しかたっていません。
今考えると少々無茶だったなぁと思います。当時はまっていた本に「ジョセフマーフィーの成功法則」があります。何か悩んだり、選択に困ったり、元気がなくなったりすると必ずこの本を読みます。今でもそうです。
いつも何かのの解決法をマーフィーの法則は教えてくれるのです。
「心に強く思うことは必ず実現する」
これが根底に流れる教えです。開業のための資金も応援してくれる人もいない私には、この本の教えは正に「聖典」でした。夜寝る前に開業したい理想像を細部にわたるまでイメージングすると、とてもワクワクしました。あらゆる理想像を自分の中でリアルと感じるまで妄想するのです。
急行電車が止まる駅のそば。隣接して大きな商店街がありマンションが立つ。駅から歩いて1分以内。ビルの1階にある入りやすいテナント。駐車場は20台以上ある。設備はレントゲンは「べラビュー」。チェアーは「スペースライン」。全調節咬合器。ソノエクスプローラ。ジロマチック。ビデオ説明システム。・・・・。電話番号は6480や8241など歯科に関係する番号。スタッフ4名。来院数60人。美人の受付嬢が予定人数になるとOKサインをしてくれる。
掛かる総費用は通常の半分以下・・・。
など、など就寝前に楽しくイメージングするのです。1ヶ月もたったころそのイメージは想像の歯科医院の床の感触からタービンを握り切削する感覚、患者さんとの会話まで鮮明になり、とてもリアリティを帯びてきました。
そして不思議なことがおきました。
つつみ歯科時代から親しくしていたプロパーのMさんから「先生!そのままの物件がありましたよ!」と言う電話。
早速見に行きました。驚いたことに私の想像そのままでした。設備、備品すべてあり、この持ち主も機械が好きな様で多くのガラクタも残されたままでした。事情がありいわゆる「居抜き」で医院を売りに出されていて、機械や備品はそのまま受け継ぐ形の契約なのです。しかも値段も通常の半値以下でした。
電話番号もNTTから6480をもらい、とてもただの偶然には思えませんでした。こんなイメージ通りの好物件が見つかり嬉しくて小躍りしたものです。よく調査もせずすぐに契約してしまいました。
ただ、大事なポイントがいくつか違っていました。
ビルの1階が3階だったこと。そして経済的な運命を左右する来院患者数は1日60人の予定がわずか10人。医療機関とはいえ、経営できなければ満足な医療サービスは出来なくなります。
坂井歯科医院 開業
昭和57年7月
ちょっと悲しい「あみん」の「待つわ」の曲が有線からいつも流れていました。友人知人に祝福され励まされながら開業しましたが、まさか患者さんを待つ自分の歌になろうとは。
開業前後に親身にアドバイス頂き、開業初日に患者さんが沢山来るようにと手配して、自らも患者として来院してくださったM氏。開業直前まで勤めていた太田歯科医院から付いてきて、軌道に乗る3ヶ月間ほど手伝ってくれたくれたベテラン助手のSさん。 毎日深夜まで手伝ってくれた妹。そして、生まれたばかりの長男を保育園に預け受付をしてくれた妻。
多くの人に恵まれていることを改めて知りました。
ちょっと不安を抱えながらも開業してしまいました。しかし患者さんは来ない。あみんの歌が妙に心に響く毎日でした。私は歯の治療技術については大学や勤務時代に学んできましたが、患者さんを集める方法については全く無知でした。いい治療と対応が出来れば患者さんは来るだろうと思っていた私はただ、ただ「待つわ」の心境でした。
1年半ぐらいはこの状態でした。
鳥人間コンテスト
比較的暇だった私は近くの喫茶店のマスターとその客たちと共に 手作りの飛行機を作成し「鳥人間コンテスト」に出場。毎日メンバーが集まりマスターのマンションの駐車場で飛行機を製作。楽しいそして思いで深い毎日でした。コンテスト当日、私たちは苦労して作成しテストして、思い通りの結果を出していたので、かなりの自信を持って出場しました。
初出場でトップテン内には行きたい!そんな勢いで望んだものです。
その日のニュースで私たちの飛行機が報道されました。快調に飛行した後、突然さかさまに反転し戻って着水するというめずらしい飛行をしたためです。操縦していた女の子は気絶していまい湖面に浮かぶというハプニング。
幸い女の子に怪我などなく事なきを得たのですが、コンテストでの飛行距離は最低レベルのわずか4m。アナウンサーが「曲芸飛行も審査項目にはいっていましたかねー」とコメント。
入ってるわけねーちゅうの!と、テレビに突っ込む私がいました。
診療の工夫
院内ではいち早くパソコンを導入し治療説明やカルテを書く作業に使用。
口腔内をビデオで収録してテレビの画面に映し治療説明を始めました。当時のビデオは肩に担ぐVHSビデオで、患者さんは何が始まるんだろう?と言う顔でお口の撮影させてもらっていました。でも、テレビの画面で自分の口の中の虫歯や歯茎の状態が映し出されると驚きと興味を持って説明に聞き入ってくれました。
その後、静止画を2画面保存できる仕組みを自分で作製し、すべてのチェアーに取り付けたり、口腔レポートという治療計画を写真とともに作成するなど患者さんとのコミュニケーションのツールを開発していきました。
これらの努力が認められたのか徐々に患者さんは増えてきました。今も昔も医院と患者さんを繋ぐものはコミュニケーションで、それをしやすくする為の行動が医院運営や診療の工夫だと思います。
転機
患者さんも増え、かつてイメージしたように一日60人以上の患者さんがコンスタントに来院し、受付嬢こそ親指を立ててOKサインを送ってはくれませんでしたが、開業当初の理想に近づいていたある日事件はおきました。大抵の事件は順調にいっている時に起きますので、これを読んでいる方々はくれぐれも肝に銘じて下さい。
「先生。ちょっと話があります」
夜遅く歯科医院に残り仕事をしていると、スタッフから電話。近くの喫茶店に呼び出されました。仕事が終わった後でスタッフに呼び出される事の恐怖は同業の院長であればわかるはずです。
「私たち、今週一杯でやめさせてください。」と3名のスタッフに告げられました。
えー!どうゆうことぉ?
表面的には何事もなく働いていた彼女らは、裏では大きな人間関係の問題を抱えて悩んでいたのでした。院内のスタッフは二つのグループに分かれ大喧嘩している。その仲裁をしてほしいということでした。私は院内の人間関係は当事者のことなので「自分たちで解決しなさい」とその場でつっぱねましたが、これが大きな間違いだったのです。
数日後、いつものように朝出勤すると医院のドアの前で数人の患者さんが中に入れずに立っています。いつも先に来て医院の始業準備をして、患者さんを入れて待っているはずなのに・・・。
「先生。今日は休みではないですよね」と声をかけてくる患者さん。スタッフ全員出勤ボイコット。悩みを真剣に聞かない院長に強い不信感を持ち、その不満を示す彼女らの大胆な行動だったのです。
この事件は坂井歯科医院の大きな転換点となりました。私はこの時まで患者様第一主義を心に実践していました。しかし、まず、スタッフ第一主義でなければならず、スタッフの職場環境とりわけ人間関係はとても大事なのです。院内の人間関係が良くなければ、スタッフは患者様に親切にしてあげたくても出来ないのです。
スタッフが満足すると、患者様に心からのサービスが出来るようになります。その結果、スタッフに心からの患者様第一主義が根付いてくるのです。今、坂井歯科医院のスタッフがとても明るくのびのびと仕事をし、患者様への対応もとても良いと評価してくださるのもあの事件があったからだと思っています。
あとがき?
これらの文章は今(2020年8月)から約15年前に書かれたものです。
若干の文章の修正や添削をおこないましたが、出来るだけ当時の気持ちを表したかったので大きな変更や加筆はおこなっておりません。坂井歯科医院は現在大きな転換期にあり、設備や医院はもちろん人も大きく変わっています。
いくつか分院を作り、今では一日に250名の方々が本院・分院合わせてご来院されています。
これから先、次世代の医院に生まれ変わり新しい世代にバトンタッチしますが、主役は若者です。私自身がそうであったように若者は常に変化を求め続け新しい価値観に触れ新たな物を創造します。私の現在の役割は、そのための場所を準備し、整備し、舞台を整える事です。患者様は変わらず当院を信じてご来院下さるよう心からお願い申し上げます。